子供の減少に伴い中標津こどもクリニック閉院へ ─ 21年を振り返る

子供の減少に伴い中標津こどもクリニック閉院へ ─ 21年を振り返る

インタビュー:栗山 智之(くりやま ともゆき)
医療法人社団 なかよし 理事長/中標津こどもクリニック 院長


中標津町に来てからを振り返ってお聞かせください

2002年に中標津に越してきてから、既に21年が経ちました。当時、中標津で医院を開業することを考え、準備を進めていました。当時私は横浜の病院で勤務していたため、3月いっぱいで中標津に移り住み、その後4月をスタッフのトレーニング期間として過ごし、5月の連休明けからこちらでの活動を開始しました。

クリニックを開業して以来、毎年一度、駐車場でお祭りを開催していました。最初はクリニックのオープンするにあたって、院内の見学してもらう機会を作るために始めたものでした。通常の内覧会とは異なり、アットホームな雰囲気を提供するためにお祭りの形式を取ることにし、前日には「こども祭り」と称して、駐車場に模擬店を出し、地域の人々が楽しめる場を提供しました。さまざまなパフォーマンスや児童館、バトンクラブ、ヒップホップの披露も行い、地域の人々が楽しいひとときを過ごせるよう工夫しました。

こうした取り組みにより、子供たちの楽しみの1つとなり毎年開催することになりました。年ごとにお祭りの参加者が増えていきました。一度始めてしまうと中断することが難しくなりましたが、地道に取り組む中で地域の支持を受けていることを実感しました。

そんな中、ある会社の社長と出会う機会がありました。その社長から実行委員長にならないかと声をかけていただき、なってくれるならその社長は実行委員長になって下さるとおっしゃていただきました。最初っから実行委員長をしていただいて、私は「大家さん」に徹しました。

それは企業の祭りではなく、地域の祭りにしたいからというのがその理由でした。

私が実行委員長として関わり始めた当初は、まず人々に私たちを知ってもらうことを考えましたが、段々と成果を上げ、より本格的なアプローチに移りました。同時に、最初の目的である子供たちの楽しみの場を忘れず、地域の企業社長たちと協力して取り組みました。地域の企業組織とも協力し、イベントの計画やデザインを共に行いました。こうした関係を築くことで、私の人脈も広がっていきました。

私にとって重要な存在となった方がいます。彼は異業種間の交流を大切にし、地域の発展に貢献する姿勢を持っています。そのつながりを通じて、様々な人との交流が私の活動に非常に良い影響をもたらしました。

最初からその方の存在は知っていましたが、ある時彼から夏祭り(当時の観光祭り)のにおいて実行委員として手伝ってほしいと依頼されました。当時はまだ実行委員会と観光協会の役割の違いが曖昧で、同じようなメンバーが関与していました。そのため、新しいアイデアやエネルギーを導入することが必要とされ、了承して協力することにしました。

その後、観光協会の活動にも参加し取り組んできました。どの場所に行っても、彼は私の導き手のようでした。彼は奉仕の精神に満ちた人物であり、その活動を通じて町との結びつきを強めていました。彼のおかげで、地域への貢献が実感できるようになりました。

以前、警察署で死体検案の仕事を5年間行っていたことがあります。ある時街中で、以前に警察署内でインフルエンザの予防接種をした方と行き会い、話をするうちにお願いしたいことがあると言われ、その後に警察署での死体検案業務をお引き受けするきっかけとなったことがありました。

この町で生活していると、多くの人々との繋がりが生まれ、様々な展開があることを実感しました。私は非常に縁を感じましたし、断ることができないのもあり、いろいろなことを頼まれる機会が多くありました。

例えば、親子観劇会の実行委員長や児童館まつりの実行委員長としても長い間活動していました。過去住んでいた横浜には児童館が存在しないため、非常に関心を持ちました。

児童館まつりの実行委員長としての活動中に、児童クラブバトンクラブ「なかよしバトンクラブ」の意欲的な姿勢に感銘を受けました。彼らの活動を見て、児童館への情熱が感じられ、自分もその一員になりたいと思うようになりました。

その後、東京の健全育成財団などとの繋がりも生まれ、全国大会に参加したり、講師として招かれたりする機会も増えました。また、児童館館長の研修会で講師を務めたり、学校関係でも性教育の授業を担当したりしました。地元の高校や中学校でも活動し、羅臼地域の学校で授業を行ったこともありました。

これらの経験を通じて、地域の活動や教育に貢献することの重要性を実感し、自分ができることを精一杯行い、地域や子供たちに寄り添う姿勢を大切にしてきました。

園医、産業医としての活動もされてきたとお聞きしました

幼稚園や保育園では園医として予防接種や検診を行ってきました。その他にも、企業での予防接種なども担当してきました。

私達の仕事の基本は、私は病気になってからクリニックに来て治療するのはもちろんですが、それ以前に人々の健康をサポートすることで成り立っていると考えています。予防接種は健康を保つための大切な活動であり、私はその使命感を持って取り組んでいました。この仕事にはやりがいを感じ、一生懸命に取り組んできました。

また、養護学校(現 中標津支援学校)の校長先生から産業医の資格を持っているかを聞かれたことがあります。当時はまだ持っていなかったのでそれを伝えたところ、校長先生は少し寂しそうな表情を見せました。

そこで産業医の資格を取ることも考え、通常は3年ほどかかるところを1年で取得することに成功しました。その後、産業医としての活動を始めました。会社で予防接種を行ったり、講演会を行ったりするなど、さまざまな活動を行っています。

産業医とは名ばかりの「名義貸し」で、全く職場の巡視や産業衛生会議などの会議に参加しない方もいまだにいるようですが、私は真剣に健康に関する活動に取り組んでおり、衛生委員会などにも積極的に参加しています。

医師としてだけではなく、子育て支援としての一面も持っていらっしゃいます

人間関係が長く続くと、様々なことを指導したりアドバイスしたりすることが出てきますね。自分が良いことを教えて実践することで、ポジティブな変化が起こる場面も多いです。そして、子供たちは確実に私たちよりも長生きします。

同じ患者さんを何度か診察することがありますが、その経過を通じて、結果的に私より長生きするであろうことに喜びを感じることがあります。また、子供たちに影響を与えることで、将来の健康に良い影響を与えることができると考えています。

子供たちの健康に与える影響を考えると、長期的な視点が非常に重要だと感じました。大人の場合、変化をもたらすのは難しいこともありますが、子供たちに影響を与えることで、彼らが一生を通じて健康に取り組む姿勢を身につけることができると思います。当院で診察を受けた子供がお父さんお母さんになって再び帰ってくるという21年間を活動してきて、その影響が広がっていくのを実感しました。

最初はまだ個人病院でしたが、約10年前に病児保育事業を開始した時に「医療法人社団 なかよし」という法人格を取得しました。病児保育事業を始めるためには、国や町からの補助金が支給されますが、個人病院への支給は難しいということで、法人格を取得する必要がありました。

北海道では病児保育がまだまだ普及していない状況です。この町で開業する以上は町の役に立ちたいとの思いがありました。病児保育の必要性を感じ、私の医院でも導入することを決意しました。また、建物も広かったため、比較的簡単に始めることができるし、試してみる価値があると判断しました。

この変更後も、私の医院は引き続き町の子ども子育て会議の委員長として、町全体の保育、幼児教育の円滑化をつかさどるお手伝いをしていました。保育園の先生方との対話を通じて新しい視点を得ることができ、自分の行動が意味を持つことを実感しました。

また、中標津町では以前から待機児童の問題が存在しており、国からの指導もあり、子どもの育成に関する会議を主催していました。その会議に私も参加するよう、当時、役場で子育て支援に携わっていた高松さんから依頼がありました。子供に関する情報や行政の事情に詳しいことから、私が適任と判断されたようです。

10年前頃から中標津町でも0・1・2歳児に待機児童の問題が発生していました。

当時は民間の認可外保育園が多くの0・1・2歳児を預かっていましたが、その保育園の閉園が決まり0・1・2歳児の受け皿の不足が決定的となり、子育て支援に関わる全ての人が「どうしたものか?」と危機感を持ちました。「行き場のない子供が出ないよう、何が何でも保育の受け皿を」ということで、病児保育の経験もあり、保育業務を実施できる法人格を持つ私達と、長年子育て支援行政に関わり、熱意と能力と資格を併せ持った高松園長とで、「こども園かぽの」を設立するに至りました。その後小さなお子さんを預かる施設数や、定員は増加しており「危機は乗り越えられたのかな」とふり返ることが出来るようになりました。

なぜクリニックを閉院することになったのでしょうか

コロナ騒ぎの少し前、3月にその年の決算が終わり、決算の結果を見た時、クリニック自体何も変わったことがないのに、なぜこんなに赤字なのか疑問を感じていました。

そんな中、近所の「なかよし児童館」に行ったところ、新年度が始まったばかりで、とても賑やかでした。先生にそのことを尋ねると、今年の丸山小学校の新入生は50人で、そのうち半数の子供の母親たちが働いているため、児童館に来ていて賑わっているという話でした。ただ、この騒がしさは一時的なもので、5年後には丸山小学校の新入生は半分に減る見込みだと聞かされました。

5年後に丸山小学校に入学する子供たちは、すでに生まれていて、予防接種などで小児科の門をくぐっている存在です。それが半分ということを当然の結果と受け止めました。

5年後には予防接種などの対応も半分になる可能性があるということです。当然クリニックに来院する人数も減少するでしょう。こうした情報を考慮した上で、次にどう行動すべきかを考えました。

その後、中標津町の人口の変動や転入転出のデータをチェックしてみました。すると、今後も子供の数はますます減少していく可能性が高いと思いました。

国が少子化問題を騒ぐ中で、実際にはそのスピードをはるかに上回る速さで少子化が進行していることが明らかです。この状況では、もう戻ることは難しいでしょう。町の小児医療は町立病院だけでまかなうことができるはずです。

もちろん経費の削減や、例えば土日も診療を行う、糖尿病の治療も提供するなどすれば、営業を続けることは可能です。しかし、私はそれが正しいとは思いませんでした。私にとって一番大切なことは、社会にどれだけ貢献できるかだと考えています。だからこそ、小児科医として必要とされる場所で働きたいという気持ちが強くありました。私は国立大学を卒業しているのですが、税金で医者になった以上、社会にとって実際に役立つ存在になれるかどうかが、何よりも重要なことだと思ったのです。

幸い私を必要としてくださる町があります。それもある出会いがきっかけなのですが、これからはそこで小児科医としてやっていきたいと考えています。

もちろん、これまで産業医として行っていた仕事もあります。調べてみると、遠くに離れていても、続けることが可能だと言われました。

医療資源の乏しい町をますます寂しくしてしまうことには、非常に大きな負い目を感じており、中標津こどもクリニックという診療所がなくなっても、力になれる事を考えてゆきたいと思っています。

(取材/2023年8月21日)


21年の歴史に幕を閉じる中標津こどもクリニック。院での診療だけでなく園医や産業医をおこない、地域の活動にも多く参加してきた。中標津町の子育て支援の要ともいえる医師がいなくなることで、町にどのような影響を与えるのか。栗山医師のように少子高齢化の影響や、高齢化など様々な理由で医師が減少している釧根管内。逆に医療過疎となることが危惧されている。